-以下、備忘録

ご笑覧下さい。笑えねーけど。

-11月13日

11月13日 本日、半年に一度の次女の通院日。とある事情で、2歳の時に東大病院で手術を受けた後、定期的に経過観察を行っている。今のところ大きな問題も無く、すくすくと育ってくれているのは幸いであるが。通院の為に有休を取得した妻は、次女と8時過ぎには家を出る。昨日、一緒に行く? 帰りに上野動物園寄って来ようと思うんだけど、と言っていたので、考えとくわー(≒行けたら行くわ)と返事するも、爆睡かまして起床が遅かった所為で(言わずもがなだが、嘘の様な快眠の日々は継続中)、独り家に取り残された私は、妻の用意してくれたサラダを食し、服薬。ルーティンとしての洗濯と洗い物を終え、昨日やり残した"鉄人"宛てへの手紙をしたため、ゆうパックに書類共々入れ、梱包(って言い方で良いの?)、投函。さて、と本日の過ごし方を思案。ま、今から東大病院行ってもいいんだが、いまいち気乗りがしない。動物園には行きたかったが、果たして今の自分に午前・午後とずっと子どもと付き合う、体力的・精神的な余裕があるだろうかと、自問してみるも些か心許ない。ならばと、脳味噌を切り替える。しなければならない、ではなく、やりたい事をやる。宜しい、ならば思う存分やってやろうじゃないか。観られていない、観たかった映画、存分に観たろうやないかい!(と言いつつも、予め時間を調べ、目星をつけていた作品あり) 但し、今回は敢えて、二本立てにチャレンジしてみようと考えていた。ぶっちゃけ最大の理由としては、梯子するのに時間帯がぴったりな作品が二つあった、という事に過ぎないのだが、それとは別に、今回夜遅く、普段自分が働いていた頃とほぼほぼ同じ時間帯に帰宅をしてみて、自分の生活リズムや調子が狂うのかどうか確かめてみたい。そうした目論見もあった。言い訳がましいが、これもある種のリハビリである。念の為、動物園には寄るのかな? と妻にLINE。すぐさま、はい! という返事と一緒に二枚の画像が添付されてくる。沢山のご飯を目の前に、真顔でピースサインをキメる次女。ニコニコしながらパンダの像と並んで立つ次女。親馬鹿は百も承知とはいえ、可愛らしい。妻とも結婚前にデートでコビトカバの赤ちゃんを見に行った。長女が生まれてからも家族三人で行った。あの頃の長女も送られてきた写真の次女みたいに無邪気に喜んでいた。屈託の無い笑みを浮かべていた。パンダか何かのぬいぐるみを買ってあげた筈だ。今、あのぬいぐるみは何処にいってしまっただろう。もしかしたら大掃除か何かのタイミングで処分されてしまったやも知れぬ。あの頃の様な屈託の無い笑みを、長女が自分に対し浮かべる事は、最早ないだろう。成長とは変化する事。変化し続ける事。分かりきった事。次女も何時の日か父をウザがる、まではいかないにせよ、父に懐かなくなり、今日の出来事を報告する際に友達を下の名前で呼び捨てで呼ぶようになり、碌に返事をしなくなったり、返事だけはいっちょ前でもやるべき事をまともにやらなくなる。だからこそ時に、変わらない物が美しく、尊い物の様に思えてくる。やはり行っておけばよかったか、と刹那思うも、いや、ならばその機会を改めて作るだけだ、と考え直す。その為にも、今は回復に努めなくては。という訳で、今日は夜遅く帰る予定だけど大丈夫かな、と昼過ぎにLINEをすると、どうぞ(ハート)、挑戦ですね!! と温かなお返事。お言葉に甘えて、ネット予約を恙なく済ませる。序でに、出るべき物もきっちり出て、腹の調子も大分楽になった。後は、明日の検査で身体内にヤバい物が見つからなければ良いのだが。そうこうしている内に、妻と次女が帰宅。通院の結果について少しだけ話を聴く。これまでの経過観察では順調だったので半年に一度の頻度で済んでいたが、ここに来て来年から下手したら週1ペースで通う必要性が出て来るかも、生命に関わる話では無いが、成長に伴い、ある種のトレーニングは必要になるかもね、との事。働き方改革も必要ってか。良きにつけ悪しきにつけ、我が人生も転機を迎えているのかもしれない。

 まだ陽の高い、暖かな時間帯にいざ出陣。妻には夕飯は外で済ますから気にしなくて大丈夫だよ、と告げる。無論、薬は携行。相変わらずこういう事に対しては几帳面だ、俺は。最初に観るのは『正欲』。原作は朝井リョウ氏。氏の熱心な読者でもなく、自分と同世代の人間からどう評価されているかも分からないのだが(錚々たる受賞歴から、"世間一般的"な評価は想像に難くない)、少なくとも拝見した限りにおいて、氏の映像化作品は、どれも"成功作"と呼ぶに値するのではないか。本作に対し、何処かで"登場人物の思考や行動動機が近代的成熟に至っていない云々"(うろ覚え)なる評を見掛けたのだが、ならばこの作品に強く共感出来た自分は恐らくは、近代的成熟なるものとは程通い、未熟な、或いは幼稚な人間なのだろう。だが、世界には出会うべきして出会うタイミングというものが確かに存在していて、今自分のこの状態で、本作に出会えた事を単なる偶然として片付けたくは無い自分がいる。"必然"として私は本作に出会った。あらすじは敢えて紹介しないが、新垣結衣の発した最後の科白で、危うく嗚咽しかける所だった。真/偽、表層/内面の単純な二項対立では回収しきれない、揺れ動く人間の関係性や欲望。後、朝井氏の映像化された作品に共通しているのは、ある種のミステリ仕立てにもなっていて、物語が進むにつれ、人物像や物事の思いがけない側面が不意に浮上してくる。些か軽薄な物言いになるが、きっちり"エンタメ"としての機能も果たしている辺り、プロの仕事(当然だが)だと思う。是非、原作にも触れてみたい。そう、偶然/必然の問題で言えば、要は人間は見たい物しか見ようとしないし、理解したい物しか理解しないのと同様に、単に自分の周囲で起こった事の中から幾つかをピックアウトし、ある特定の事象に結びつけ、そこに"意味"を見出す、ひいては"物語"を拵える。たったそれだけの事だと理解しているつもりではある。だからこそ、時に人は、特売セールを告知するチラシの文字列から、平気で"宇宙からのメッセージ"やら"世界の真理"やらを読み取ってしまったりもする。目に映る、全ての事はメッセージ。母の死に話を戻す(という事は即ち、まだ心の何処かで拘り続けているという事でもある)。今でも覚えているが、彼女の死の前後にたまたま観た四作品『愛する人に伝える言葉』、『オットーという男』、『生きる LIVING』、『ザ・ホエール』、これら全てが主人公の死に纏わる話だった。別に人が死ぬ映画(に限らず物語)など珍しいものでもない。いや、むしろ体感的に、私が観る映画の大体7~8割程度の確率で、何らかの形で人は死んでいるのではないか。内容は余命幾許云々であったり、ド派手な爆死であったり、ゴミの様な大量殺戮であったりと、様々だが。それら四作品に描かれていたのは「"人を教え、導く"という事と関わり合う死」であったり、「"絶望"という象徴的な意味での死から、人々との交流を通じ甦った人間が、その果てに迎える物理的な意味での"死"」であったり、「後世の為に、遺された時間を費やす、名も無き市井の人間の死」であったり、「疎遠であった家族や、支えてくれた僅かなる周囲の人々、PCの画面越しでしか繋がる事のなかった人間に、己を曝け出し、伝えるべき事を伝え、果たすべき事("贖罪"と換言して良いかもしれない)を果たした上での"救済"としての死」等々だった。共通する事はある。限られた時間の中で己自身と、周囲の人間と真摯に向き合い、彼らに"贈り物(gift)"を遺していく事だ。母が癌である事は姉からのLINEで初めて知ったが、コロナ禍が災いし(文字通りの意味でもだ)、なかなか元気な内に帰ってやれなかった。娘達の誕生日が近くなると、必ず贈り物が届き、お礼の電話をかけがてら、それとなく「皆さん、変わりは無いですか?」と訊くと、決まって返って来る言葉は「みんな元気よー。」だった。母はそういう人だった。内心どの様な思いだったのか。それを慮るには自分の想像力は余りにも貧困だ。だが、確かに遺された物はある。極論すれば、"自分という存在"をこの世に遺してくれた事。それで十分だと心底思える。だからこそ、母の死の前後にこれらの作品に出会えたのは、自分の中では"必然"であったのだろう、とも思う。

 さて、続いては『ザ・クリエイター/創造者』。ネットなどで、矢鱈絶賛評を見掛けた(割に興行成績は伸び悩んでいる様だが)のだが、果たしてどうか。少し身構えて臨む。観賞後、真っ先に浮かんだのは(「『T2』から隔世の感あり」と「G・エドワーズなりの"ローグ・ワン"の雪辱戦、もとい落とし前(そして、内容面で充分成功している)」という事。『T2』のエンディングで"シュワちゃん(って、今の若人に意味通じるのかな)"演じるTー800の「何故、人間が涙を流すのか分かった。俺には涙を流せないが」なる科白があるが、本作に於いて、AIは普通に涙を流す(それは唯のプログラミングに因るものかも知れないし、そうした機能が備わっている必要性があるかどうかも疑問だが)。それでいて、人間そっくりの姿として作られている訳では無い。それは勿論、人間と機械との差別化を図る世界という設定が要請するものであり、同時にAIが当たり前の様に存在しているので、殊更に人間そっくりである(人間世界に紛れる)必要性も無いという事だろう。本作では、AIを拒絶する人間世界(西洋)が、AIを滅ぼそうと、人間とAIとが未だ共存を果たしている世界(東洋)と戦争を繰り広げている(だが、原因を作ったのは他ならぬ人間の側)、という状況が描かれている。ある種の人間にとって、AIは冷戦時同様、得体の知れぬ恐怖の対象だが、そうは捉えない人間も明確に存在し、人間の側でも""西洋/東洋"なる単純な二項対立の図式では無く)分断が存在している、という、時流に即したアップデート(80~90年代と2020年代では価値観、いや世界が異なるのだから、それは極々自然な事だ)。同時に、日々AIの進歩する現代社会において(私は"ド"がつく機械音痴だが)、嘗てより痛切に感じられるのは人間/機械の境界がより揺るぎ始めている事(だからこそ、両者の境界がより明確になる領域も出て来るのだろうが)。その象徴が前述したAIの流す"涙"ではあるまいか。我々が日々、思考し、喋り、綴り、行動する事の大半がある種のプログラミングに過ぎないのでは、と思う機会が増える様になった。微妙な差異はあるにせよ、決まった時間に決まった場所に行き、似たような業務をこなす……。日々、似たようなライフスタイルを繰り返し、SNSを開けば、ポピュリズムに則った、ウケそうな、それでいて似たりよったりな事ばかりが綴られ、感想が並び、感情を抱く。誰かの言葉をトレースし、或いは見聞きした言葉とほぼ同様の内容を、世界へと向け綴り、対面で誰かに対し話す。酒、たばこ、薬、洗脳……で簡単に"人格"(と私たちが信じている何か)は変化、時には破壊させられ、頻繁に見聞きする物に欲望、或いは嫌悪感を抱き……と列挙していけばキリがないが、つまり、私たちの思考形式、行動様式、何が愉しく、何が厭で、晴れていれば気分がアがる、雨の日は憂鬱……育ってきた環境が違うから好き嫌いはイナメナイ……いずれにせよ、そう大きく逸脱するものってないじゃん。たまに"社会通念"とやらの規範から逸脱する様な行為や欲望を抱く人間が出て来るけど、それって機械でいうとこのバグに過ぎんでしょ、みたいな話だ。間違いなくこうした事は遙か以前からもっと綿密に議論されて来た筈だろうけれど、特にSNSが普及し、自分も参画するようになって、そう感じる機会が非常に多くなった。そう、AIの進化によって、これまで様々な形で、散々語られてきた、唯の"絵空事"として享受してきた事が、急速に"実感を伴う現実"になりつつあるのだ。この備忘録だって、結局は私の脳味噌なるよく判らんプログラムによって組み立てられた、見聞きしたものをトレースし、つぎはぎして不格好に再構成した、ただの文字列に過ぎぬ。そして、明らかに言語化に於いて、ある側面では機械が優位に立ちつつある(今のAIが行っている事は、結局人間の蓄積した膨大なデータを瞬時に検索、構成しているだけで、微妙なニュアンスを汲む点ではまだ人間に敵わないだろうが、そうしたレヴェルに到達しない人間が、少なからず存在するのもまた事実だろう)。後、これも上手いなと思ったのは、死亡直後の人間の脳をSCANし、意識がある直前の記憶(何分ぐらいかは忘れたが、なるべく新鮮な内が良い)をAIにインストール出来るという設定。これまでも似たアイデアは無数にあっただろうが、重要なのは、そうした記憶を基にAI自体が死亡した人間と同様の感情や行動を自律的に行える、という点だ。なので、例えば、自分の死体を目の当たりにし、今喋っている"自分"とやらは既に人間としての機能を停止している事に気づき、動揺する、といった描写が生まれる。恐らくは、我々が、例えばアルバムに記録されていた画像データや音声データを何の気無しに見た瞬間、不意に当時の記憶や感触までも想起する事が起こるような、"人間らしい"とされる行為がAIにも十分可能な世界線の話。だから、クライマックスは、ある意味『T2』以上に歪でありながら、同等に感動的でもあった……何て事を、観た直後の自分が考えた訳ではない。当時を振り返っての後付けに過ぎない。明日、自分の記したこの記録を見て、幾らでも手直し出来る自信がある(というか、現に今している)。〆切りも何も無い、果てのない推敲。生き物には寿命という〆切りがあるのが、せめてもの救いだろう。時刻は21時過ぎ。大分街を歩く人の数も減った。この季節なのに、この心地よい夜風は一体全体何だ、と思いつつ、また一つやれる事が増えた、という謎の満足感と共に帰宅。確か、博多天神か何か食べて帰ったような気がする。無論、替え玉(無料)バリカタで。緩慢なる自殺は続く。